「オペラ座の怪人」★3/5

Kakeru2005-03-21


連日のユナイテッド・シネマとしまえん通いで「オペラ座の怪人」鑑賞。

タモさんほどじゃないけれど、ミュージカルが苦手だ。
やっぱり、あの「台詞を突然歌い始める」という雰囲気や間合いが生理に合わないんだと思う。
じゃあどのミュージカルが嫌いなんだ? というと「サウンド・オブ・ミュージック」も「ウエスト・サイド物語」も結構好きだったりする。

多分、劇団四季が苦手なんだろう。ポスターを見ているだけで小恥ずかしくなってきてしまう。(宝塚はそれ自体「様式美」になってるところは好きだ。歌も踊りも見てられないくらいにヘタクソだけど)

でも、つらつら思い返してみると、オーケストラの演奏会以外の本格的な芸術に生で触れたのは、劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」が初めてだった。鹿賀丈史キリストバージョンだから、これはもう相当に昔の話だ。
そのときは、感動した。もうどうしようもないくらいに感動した。
その感動が、舞台芸術そのものに対する興味関心になっていったのだから、やっぱり劇団四季に足を向けては寝られない(でも、これだけハコが多いと、どっちを向いて眠ればいいんだか)



さて、その劇団四季でも大好評上演中の「オペラ座の怪人」を、原作も舞台版も知らずに鑑賞。
徹底的にオーソドックスで月並みな映画だった。ストーリーとしても、演出手法としても、カッチリしすぎているくらいに定番的な展開が繰り広げられる。
これは決して悪口というわけではない。それだけベーシックな手法や作法を押さえていて、観客の期待を決して裏切っていないのは、やはりスゴい。

でも一方では、「ジーザス・クライスト・スーパースター」の鬼才、アンドリュー・ロイド・ウェバーも老いたな、とも感じてしまった。
バックバンドを従えたユダが、突然マイクを持ってシャウトして歌いだす、といった類いの驚きは、この作品には一切無い。
「キャッツ」のストーリーも非常にベーシックで古典的な展開を見せたけれど、この映画は古典が原作ということもあって、さらに筋金入りのベーシックな展開を見せる。


※以下はネタバレを含みます


たとえば、いかにも幕間の後の第二部といった感じで始まる仮面舞踏会のシーン。
みんな仮面かぶってるんだから、そりゃあここで怪人が出てくるだろう、と。
その「期待」を裏切らずに怪人は登場するんだけど、それを「待ってました!」と歌舞伎や京劇のように声援を送れるのか、「バレバレ!」と冷めた目で見るのかで、その人のこの作品に対する評価は決まるだろう。

他の場面でも、なにしろファントム、ゴーストなんだから神出鬼没なんだけど、ちゃんと出てくるときに出てきて、消えるときに消える。
そういう意味ではスリルやサスペンスとは無縁の、大時代的な定番の「お芝居」というのが、この怪人の「正体」だろう。


そして、映画としても非常にオーソドックスで、特に印象的なシーンがあったとは言い難い。
オープニングのオークションのシーンで、シャンデリアが吊り上げられて行き、劇場が栄光の時間へと早回しで時を遡るシーンの評価が高いようだけれど、たしかにあのCG自体の出来は良いにしても、ああいった演出手法は極めてオーソドックスなもので、時間の早回し自体が映画的テクニックの古典中の古典だ。

そして、これはウェバーではなくて、ジョエル・シュマッカーの側の問題になるのだろうけれど、ミュージカル版はさておき、映画としては後だしジャンケンなのだから、直球で「ムーラン・ルージュ」を連想させる廃墟の劇場からスタートさせてどうする? という気もした。
そして、自分で歌っているのはすごいにしても、クリスティーヌも子爵も、ニコール・キッドマンユアン・マクレガーほどにはグッとこなかった。もっとも、これに関してはストーリー自体が恋愛コンシャスなものではなくて、古典的なお約束で組み立てられた定番世界だから、ということも影響しているだろう。
お約束の世界では、人はなぜか恋に落ち、とんでもなく盛り上がり、そしてなんらかのアンチクライマックスを迎える(ハッピーエンドが連発されるようになったのは、ハリウッド映画的作劇法がはびこってからで、例えばクラシック・バレエの演目にしてもなんらかの悲劇的結末を迎えるものは多い)


たしかにスワロフスキーのシャンデリアは美しかった。
でも、スワロフスキーのスポンサーマネーが豊富すぎて、この映画から輝きを奪ってしまっている部分もあったのだから、完全に諸刃の剣だった。
ラストの墓地に向かうシークエンスで、子爵はスワロフスキーのショーウィンドウを見て昔日の自分たちを思い出すのだけれど……あれだって結局ガラス玉なわけで、そう気づいた途端に見る方のテンションは下がる。
そしてなによりも、重要アイテムの「指輪」
墓標の横に置かれたバラの花には、あの指輪が! ……にしても結局ガラス玉なわけで、気持ちの盛り上がりもサーッと音をたてて引いてしまった。


興味深い題材を定番の手法で手堅くまとめあげた手法はすばらしい。でも、音響や歌唱、細部の演出に感心できる部分が少なかったこの作品を、手放しで評価するのは難しい。率直に言えば、映画としてスクリーンに再構築した理由がよくわからない。
もし、パイプオルガンがあるような大劇場で生オーケストラをバックにしたミュージカルとして鑑賞していたら大興奮、感動の絶頂に達していただろう。サウンドトラックも欲しくなった。
でも、これは映画。ミュージカルにはミュージカルのマジックがあるように、映画には映画のマジックがある。
ファントムのマントさばきにドキッ、としたり、舞踏会の絢爛豪華さに心を奪われる向きとしては、やっぱりバレエやオペラの舞台を観に行った方がいいようだ。
なにしろ、「ムーラン・ルージュ」に対してはそういった感想を持たなかったのだから。


作品としての「オペラ座の怪人」、物語の本質には文句なしの★5を。でも、この映画は評価できず、★3に格下げ。

オペラ座の怪人」のメインテーマを初めて聞いたのは、90年の紅白歌合戦市村正親でだったけれど、あの日本語の歌詞は今思い出しても……ちょっと恥ずかしくなります。

それにしても、クリスティーヌはミュシャの絵から抜け出てきたようでとてもかわいらしかった。彼女の存在感自体はサラ・ブライトマンよりも清楚で、可憐でよかったとさえ思いました。

ストーリー自体にハラハラさせられたのは二箇所。

まずはクリスティーヌが子爵とファントムのどちらを選ぶのか、ということ。
渡辺淳一的(あるいは世俗的現実)世界では、それは女は若い男を選ぶだろうけれど、芸術の世界では往々にして逆になる。そして、ファントムを選んだとしても、彼女は本質的には誰のことも選んでなんかいないわけです。
芸術家は、誰かとパートナーシップを結べるほど優しくもなければ余裕もないし、ナルシストにもなるヒマもないほどの狂人なんだから。
そして、クリスティーヌの墓碑銘がアップになるとき。
子爵の沈痛な表情の理由が、最近になってクリスティーヌを失ったからだ、というのがわかって心底ホッとしました。
物語の世界位はハッピーエンドでもいいよね、それくらいは思います。
子爵はもちろん、ファントムにもなれない男の人生っていうのは、悲しくも退屈なものなわけですから。