相対論の限界

Kakeru2005-07-13


前回の「バトン」の項(『「閉じた輪」そしてプロの昇華』)に、adoreさんという方からトラックバックがあった(rahiemの社会宗教学blog「バトンはチェーンメールか」)

ここは一週間おきくらいのペースでアップしているので、こんなタイミングになってしまったことに恐縮しているが、今回は、そこでの考察について考える。


adoreさんは、バトンが過去のチェーンメールと比較したときに『あくまでも相対的にではあるが、「害の少ない遊び」』と考察していた。
そこで例示された三つの論点について、私はこう思う。

・物品や金銭をどこかに送れというようなアクションを要請するものにはなっていない

いわゆる「不幸の手紙」を筆頭に、「痛みの単位」や「鉄腕ダッシュ」といった有名チェーンメールも「物品や金銭の要請」ではない。
「殺処分される犬」や「日本医科大学付属多摩永山病院」も、直接的な犬の購入や、輸血という行為よりも、結果として犬を飼えない、あるいは血液型が適合しない大多数の他者の「善意」が標的になったという点では、物品・金銭というラインでは捉え難い。
チェーンメールの定義を「物品や金銭の要請」と限定してしまっては、その実状と合致しないだろう。

・無差別に個人に送ったりすることを推奨してはいない。また、どこのブログにもコピペOKですというような推奨もなされていない。

前項に例示したチェーンメールを受信した経験からいうと、「無差別に送れ」といった物の言い方がされていたことはないし、「記録に挑戦」と称していた「鉄腕ダッシュ」以外、つまり大多数の一般的なチェーンメールは「コピー&ペースト」で送ることには必然があるわけではなく、むしろ「殺処分される犬」や「日本医科大学付属多摩永山病院」の場合、メールだけではなく電話などのコミュニケーション手段でも流布されていったことの方に、より大きな問題があるだろう。
このように、コピー&ペーストで増殖することがチェーンメール必要充分条件ではない。

・確実に、「知っているお友達」にバトンを回すことが推奨されている。

これまで、バトンについて「知っているお友達」に回すように、と明示してある場や記述は見たことがないので、ここでいう「確実」が何を指すのか充分に認知できなかった。
ただ、実例で考えたとき、例えば有名企業の業務として運営されている「村上モトクラシ大調査」のような有名blogで、管理人が「お友達」とは考えにくい相手にバトンを回していた状況から考えたとき、バトンすなわち「確実」「お友達」に、という明確なコンセンサスが一般にあるとは捉えにくいし、少なくとも必然とはされていない状況がある。


最後にadoreさんは、以下のように結んでいた。

今のところ、私はこうしたバトンが回ってきたことについては不快にも迷惑にも思っていないが。

受け取る人が「不快に」思う、思わないというのはあくまでも一個人の問題であって、だからこそ個人としての自由が尊重されなければいけない部分だ。
しかし、社会の良識、常識というものは、あくまで公益に基づいて論じられるべきであり、このバトンというものに関しても「楽しんでいる」あるいは「不快に思う」といった個人の主観で相対的に論じられるべきものではないだろう。