「閉じた輪」そしてプロの昇華

Kakeru2005-07-06

前々回「バトン」の話題を取り上げた時(「ああムラカミよ、君を泣く」)、『村上モトクラシ大調査』にトラックバックを送信したら、その欄で隣に並んでいたのが、「岡田昇の研究室 人生は、ぼつぼついこう!」というblogの「バトンの行方」という記事だった。


その筆者の岡田さんは、拙blogを始め、各方面で表明されている観測に対して、このように婉曲な否定をしている。


> Musical batonについて、チェーンメールの一種だと批判する人がいるようですが、オカダはそうは思いません。


以下に、そこでの内容について考えてみた。

不幸の手紙」等の問題点は、それを受け取った人の意志に反して回さなければばらないという気持ちにさせられるという点にあると思いますが、Musical batonの場合は、受け取るのも回すのもあくまでも本人の自由ですから。

まず第一に、「不幸の手紙」の扱い方も「本人の自由」のはずだ。
たしかに「回さなければ!」という強迫観念のポイントは、「不幸」ではなく「趣味への興味」といったものでうまくオブラートされている。

しかし、それでは「鉄腕ダッシュ」も「殺処分される犬」、そして「日本医科大学付属多摩永山病院」も、そのエンタテイメント性やイノセンス、善意に免じて肯定されることにもなりうるだろう。
ここには、無限連鎖構造という根本的な問題についての認識が一切無い。


また、「受け取るのは自由」といっても、トラックバックなりblog内の記述で、ハンドルやID、URLが不本意に晒されることが「自由」というのなら、この「自由主義」は明け透けすぎる。

1996年に、小学館が刊行した「デジスピ」というムックで、個人サイトのURLが無断で掲載されるなどしたことが問題になったことがある。
当時、既存メディアでは「WWWに公開されているデータや内容には著作権や肖像権は無い」というスタンスをとっていたことがその問題の根本にあった。
当時はまだまだインターネットの黎明期だったため、こうした問題が起きたとも言えるが、当時既に、小学館や担当ライターを糾弾する空気や、現実的な行動は存在していた。

商業出版物と、個人のblogでは規模が違うのはもちろんにしても、一方的な独善によって、トラックバックによるURL(や、それに含まれるID)の露出や、本文などの記述で無用にハンドルや名前が晒されてしまうのは、プライバシー的に問題があるだろう。



バトンを断るのも負担に感じる、という人の気持ちはよくわかりますが、そもそも人間関係というのはその程度には負荷のかかるものではないかと思います。

「誰かが誰かに負荷をかけるもの」=「人間関係」という認識は、性悪説が過ぎないだろうか。
そんな負荷をお互いにかけないように努力することこそが人間関係ではないのか? そんな前向きな姿勢を否定するこの居直りは、全く理解できない。

たしかに人と人との関係性においては、そういうことも多々あるだろう。
しかし、それでもなお、そうならないように努力するのが社会性動物としての人間だろうし、そんな風に居直ることは、良識や常識を持ち合わせた人間のすることではない。

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また、そのblogで、金の猿(金さる)さんという方が、以下のようなコメントをしている。

ひとつのできごとについて、受け取り方は様々。賛否両論、あってしかるべきものでしょう。良いものは残るし、そうでなければ(上手に使われなければ)すたれていく。それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

根本的な問題点である無限連鎖構造の面から考えたとき、残れば善、淘汰されれば悪、といった図式に単純化するのが正しいというなら、「残っている」アムウェイニュースキンは「良いもの」。摘発された「天下一家の会」だけが悪者ということになりかねない。
ここには、残ろうと、淘汰されようと「無限連鎖構造=悪」であるという、根源的な認識が欠けている。

エイプリール・フールに目くじらを立てるか、笑い飛ばすか? TPOによりけりですが、五十歩百歩ですね。

エイプリル・フールだろうと、バラエティ番組の「ドッキリ」だろうと、「シャレにならない」ものが赦されることはない。
「無限連鎖構造」「プライバシーの無用な開示」といった問題は、少なくとも「五十歩百歩」ではないだろうし、もちろん「笑い飛ばせる」ようなものではない。

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こうして順番に考えてみたとき、バトンというものは、肯定派の人々が「他者への興味」「読み物として楽しめる」「受けとるのも回すのも自由」と強調すればするほど、「独善性」「閉鎖性」「排他性」が浮き上がってくるようにも思える。


村上モトクラシ」の灯台守(管理人)「マツモト」氏からバトンを受けた岡田昇さんは、村上春樹その人にバトンを渡すことを「マツモト」氏に依頼している。
それ自体は、ファン心理としてよくわかる。
私自身、運用当時の村上朝日堂ホームページにはメールを書いたものだし、返事がもらえないか、コードネームをプレゼントしてもらえないか……とそわそわしていたものだ。

しかし、これがバトンとなると、「返事」や「コードネームプレゼント」がコンテンツ内容を直接構成していた朝日堂と違って、独善の押しつけであることはやはり同様だろう。
だからといって、そんなものは担当者レベルで処理する範疇のトラブルのはずだ。
ネットの隅っこの狂人だけでなく、その構造や有り様に問題意識を持つ人間が少なくない「バトン」という厄介ものを、ポーンとボストンに放り投げるのは、担当者としてイノセンスが過ぎる。


もっとも、前回書いたように、「マツモト」氏にバトンを渡したのが株式会社はてなの取締役となると、「村上モトクラシ大調査」そのものと同じように、パッケージも根回しも、何もかも全て完成している状態で始められたことなのかもしれない、とは思わされてしまったが。

そういえば、「電車男」の版元も新潮社だった。


さて、そうしているうちに「村上モトクラシ大調査」では、かくも短いインターバルで村上さんの中古レコードトーク(「村上春樹さんメッセージ」)が公開されている。
これはもしかすると、Musical Batonというダークサイドからの秋波を、プロフェッショナルにサラリと昇華した回答なのかも、とか思った。

もしそうだとしたら、やはり「苦情の手紙(拙blog:荻窪つな八事変1)」を書くことでスッキリできる人と、本当に出しちゃうバカは違うよなぁ、と思い知らされるしかない。


以下、その前提で話を進めるが、まず第一にそのスマートな姿勢に感心したし、何よりも驚いたのは、その文章が「面白い」ことだった。
およそ関心の無い古いジャズのレコードの話が書かれているだけなのに、なぜか心を引かれる部分がある。
それはもちろん、プロの、それも大作家の文章なのだから、それだけのポテンシャルはあるだろう。しかし、一番大きいのは、読み手の存在を意識しているかどうか、文章作法としてのそんな当たり前の姿勢があるかないかの違いだろう。
バトントワラーたちは、しきりと「他者への興味」とか「繋がり」とか言うけれど、それに足る文章を書いているだろうか。
バイト数やASINコードの羅列だけで興味が充足できるような関係性というのは、デジタルにドライすぎて、薄ら寒い感じがしてしまう。

さて、そんなバトンが自分にもし回ってきたとして(ことここに至り、無意味な仮定ではあるけれど)、それでも僕は、正面から断ることしかできないと思う。

人間関係のストレスにはいろいろあるけれど、呑み込むストレスよりは、まだ人間関係的「焼き畑農業」のストレスの方が受け入れられるような気がする。

というか、好むと好まざるとに関わらず、これまでこんな風にしか生きてこれなかった。
つまりは、そういうことなんだろう。