対人恐怖症

不眠や過食は克服できても、対人恐怖は消える気配が無い。
特にネット上のものについては、なんだかビクビクするようになってしまっている。

SNSで作っていたコミュニティー(前述)の管理人も止めた。
去年までのblogも閉鎖して、新しくここで始めた。
バーチャル社会で引っ越しをすることで、ちょっとしたリセットをしたかったというのはある。

どんな始まり方をした関係性であれ「リアル」な何かがそこに無かったとき、ある種の「恐怖」を感じてしまうようだ。

とりわけ、ネットだけの関係性というのが、どうにも怖い。
でも、ネット上のつきあいしかなかったとしても、そこに「リアル」なシンパシーやコミュニケーションが存在していれば、それはまた別の話だ。
そして、リアルワールドのつきあいでも、そこに「リアル」な関係性がなかったら、それはやっぱり「恐怖」になってしまう。

というわけで「友達の友達」というラインが今は一番怖い。
それはもちろん、大晦日の「阿鼻叫喚」が「友達の友達」「友達の後輩」が原因だったことが大きい。


ところが、僕は仕事柄いろんな場所でいろんな初対面の人に会うけれど、そういった恐怖を感じることは、まず無い。
これは、少なくともこちらが相手に対して業務上であれなんであれ「関心」を持っているかどうか、そこが違うのだと思う。
自分や自分の属する環境に「関心」を持っている存在に対して、人はそうそう邪険にはならないものだ。

ところが「友達の友達」という人たちは、往々にして全くこちらに関心を持とうとしなかったり、こちらからの働きかけに対してディスコニュニケーションで応じたりする。
そして、とりわけ若い世代では、そこに社交辞令や単純な挨拶のやりとりすらなかったりすることがあたりまえになってきた。

そういった冷血な人たちとのコミュニケーションに腐心するよりは、「友達の友達」といったあいまいな関係性を一切持たずにいよう、という「ROE」を掲げて、これを守っていく方が平和でいられそうだ。でも、どちらの対処にしても、なんともイヤな感触のするものだけれど。

この調子では、ただでさえ少ない友達、ただでさえ少ないプライベートのつきあいが、どんどん小さくなってしまうかもしれない。
だからといって、無理に中身がすっからかんの関係性を保ってもしかたがない。社会性というものは、個人間の関係性よりもレベルの高い存在のはずだ。

良識、常識に欠ける人たちと関わって、誰かが脱力したり、消耗したりする理由はどこにも無いと思うのだけれど、世の中の人たちの多くは、本当に仲良しゴッコが上手だ。
こうなると、破廉恥な人たち以上に恐ろしいのは、そういう「仲良しゴッコ」が上手な人たちの方かもしれない。
世の中には下手クソでいいものだってある。

性悪説だけで世の中を見たら、疑心暗鬼になるばかり。
性善説を信じすぎたら、失ってばかりいる。