「フリー・ウィリー」★3/5

Kakeru2005-02-07

野生動物が登場する映画やテレビシリーズの舞台裏には、いろいろと考えさせられてしまうこともあるので、こういう映画をストーリーや映像といった要素だけで取り上げることは難しい……以下、ほんの少しだけでもいいから、考えてみてほしいこと。


※以下はネタバレを含みます


この映画では、ウィリーは水族館の水槽から自由の海へと解放される。しかし、ウィリー役を演じたケイコという名の雄のシャチは、その後もメキシコの劣悪な設備のプールに閉じ込められたままだった。
自然を扱った映画には、時としてこういう偽善や欺瞞が行われてしまう。動物を人工的な環境に閉じ込めてしまうことを「問題」とする作品を作っておきながら、実際は作り手こそがその状況を助長していたのだ。
しかし、映画がきっかけとなって、ケイコを海に戻そうという声が沸き起こり、世界に広がったのもまた事実だった。

募金や、スポンサーがついたことで、オレゴン州にリハビリのための大きなプールが作られ、1997年にケイコはそこに移送された。
それまでよりも広いプールが与えられ、観客の前で芸をする必要がない環境で、彼は皮膚病、げっそり落ちてしまった体重、といった状態から回復することができた。そして翌年、ケイコは1980年に彼が捕獲されたアイスランドの海で、リハビリを続けることになった。
「リリース」という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれない。捕獲され、水族館等で飼育されてきたイルカなどの動物を、自然環境の中で生きていけるようにリハビリし、自然の海に返すことだ。このケースも、最終的なリリースを目的にしたものだ。

しかし、故郷のアイスランドの海に単に「リリース」しただけでは、ケイコは生きてはいけない。ごく小さな子供の頃に捕獲された彼は、今まで狭いプールでしか生活したことがない。速いスピードでまっすぐ泳いだこともなく、プールのわずかな深さにしか潜ったことがない。それに、人間に与えられる死んだ魚しか食べたことがないのだ。
広い場所でまっすぐ泳ぐこと、海に深く潜ること、自力で餌を捕ること……自然に生きるシャチとしてあたりまえのことを、ケイコは学んでいかなければならなかった。
シャチは、ポッドと呼ばれるコミュニティー単位で生活し、他のシャチとの関係性の中で生活能力や社会性を学んでいく動物だ。子供の頃から人間と生活していたケイコは、泳いだり餌を捕ったりということだけではなく、他のシャチとのコミュニケーションをとることも新たに学んでいかなければならなかった。

アイスランドの入り江を仕切った生け簀での生活を始めたケイコは、泳いだり潜ったりといった能力を着々と身につけ、生け簀の側にやってくるシャチとのコミュニケーションも徐々にできるようになっていった。周囲に生息するシャチのDNA鑑定が行われ、ケイコの家族たちのポッドも特定された。

クルッと巻いてしまっている背びれは、狭いプールでグルグル回ることしかできなかったための退化によるものだ。自然環境に近い状態に戻った現在も、悲しいシンボルとして残っている。今もリハビリは継続中。2002年3月現在、ケイコはまだ海には帰れずにいる。



僕は、例えばエンディングロールに「撮影に使用された動物は実際には傷ついていません」といったクレジットを入れなければいけない“PC的”な価値観や、「クジラやイルカ、シャチは高等動物なので」といったキリスト教的な恣意的対動物観に安易に同調するものではありません。
また、往年のテレビシリーズ『わんぱくフリッパー』のイルカ調教師、リック・オバリーのように、ラジカルな形で飼育イルカのリリースを行うことに賛同することもできません。彼が不十分なリハビリでリリースしたイルカが、自然環境で生きていくことができず(例えば前述のように自然界で餌が捕れなかったりする)結果的に人間に保護された、という事件が示すのは、それもまた人間の傲慢さの一面である、ということにも見えます。
そして、水族館での飼育(動物園での陸上動物のそれにしても)の全てを否定しようとも思いません(それもまた人間と動物との関わりの有り様の一つだとも考えています)


しかし、この映画のようにシャチの解放を物語っておきながら、実際は劣悪な環境での飼育を継続している、といった欺瞞はどうしても受け入れることはできません。前述のリック・オバリーにしても、『フリッパー』の撮影中に何頭ものイルカの命が「使い捨て」のように消費され、それが彼の抱いた疑問の出発点だった、ということについては、充分に理解できることだと思うのです。

野生動物ではないペットや家畜を用いた作品にしても、例えば半ば都市伝説にもなっている「『小猫物語』には何匹のチャトランがいたのか?」というような話もありました(川を流されるシーンがあったりしたので……)。動物を扱った映画は、それこそナチュラルな分、ピュアな分、感動できるストーリーになるかもしれない。でも、作り手はどこまでその「自然」や「野生」、そして「生命」を感じているのでしょう。

確かに、ストーリーを語るために、作り手は人の心を弄びます。作品の中で様々な血が流れたり、命が奪われたり、傷ついたりすることがある。しかし、そのフィクションの、ヴァーチャルな世界の中で、動物に、そして自然に、どれだけのリスペクトを、その生命にどれだけの尊厳を認めているのか……作り手に要求されるべきなのは、そういう視点だと思います。
「感動」のために「生命」が浪費されるのが現実であるならば、人はそれを追認するべきではないでしょう。



ともあれ、ケイコは故郷のアイスランドに帰ることができました。そして、この映画のシリーズ、『フリー・ウィリー2』ではシャチの撮影にロボットが併用され、『フリー・ウィリー3』ではロボットのみが使用されました。こういった現実が積み重ねられていったのは、やはり前進なのだと思います。

自然や動物の保護にしても、いわゆる環境問題にしても、たしかに大きなヴィジョンを持つことは必要でしょう。しかし、現実的な問題としてどこから始められるのか、と一歩立ち止まって考えることこそ、日常的に必要なことなのではないでしょうか。ラジカルな方法で全てを元に戻すことはできないにしても、ほんの少しずつでも何かを積み重ねていけたら……と思います。(CinemaScapeフリー・ウィリー」拙コメントより)


フリー・ウィリー 10周年記念盤 [DVD]

ケイコは、その後2002年にリリースされたもののノルウェーの入り江に戻ってきてしまいます。
その後、支援団体などの手によって、湾岸で保護、飼育されていましたが、 2003年12月11日。肺炎によって急死しました。
推定年齢は27歳。飼育されているシャチとしては高齢でしたが、35歳までは生きると言われる野生のシャチとしては、早い死だったようにも思えます。