技術当然それから……

Kakeru2003-12-17


クマテツはイギリスではノーブルではなかった……その理由を身長差と書いた。
もちろんそれだけではない。
ダンスール・ノーブルという言葉は、「王子様らしさ」と訳されることもある。
どれだけ技術があっても、舞台に立ったときに王子様然とした存在感があるかどうか。結局そこにはじまってそこに終わる。

イギリスロイヤル時代の熊川哲也には「テディ」というニックネームがあった。
もちろんテツヤという名前の音や、ベビーフェイスのマスクからも来ていただろうけれど、フワフワモコモコのくまちゃんのイメージは、ノーブルからはずいぶん遠い(それに、ちんちくりん、というネガティブなニュアンスもあったかもしれない)。

それでは日本人ダンサーにノーブルはいるのか? という話。

新書館バレエレッスン雑誌「クロワゼ」Vol.13の「ダンスール・ノーブルって、どんな人?」という記事では、小嶋直也、法村圭緒、逸見智彦、後藤晴雄という4人の「ノーブル」が取り上げられている。

日本のバレエ雑誌は御用マスコミばかりで、取り上げるダンサーや公演の扱いは市場原理が極めて薄く、ローテーションのくり返しなので読み解くにはちょっと別の感覚も必要になってくるのだけれど、ともあれ筆頭に上がっている小嶋直也(写真)は「日本を代表する」ノーブルだ。

名門牧阿佐美バレエ団(以下、牧)から新国立劇場バレエ団(同、新国)へ。主役を張る大看板で、この冬の公演でも「シンデレラ」の王子を踊っている。
彼のジャンプのシャープさと正確さは定評がある。パワーや勢いでとにかく飛んでしまうジャンプとは正反対。スマートな柔のテクニックを持つ。

「和製ノーブル」の彼にはファンも多い。公演のチケットも売れる。しかし、そのチケットを買っているのはコアな日本のバレエファンだけという状況がある。
つまり、前回「(熊川哲也の)チケットを売り切れにしてしまう層は、今や、いわゆるバレエファンとは微妙にずれる」と書いた、まさにその「バレエファン」たちだ。
たしかに彼のテクニックはすばらしい。しかし、決定的なこととして、舞台上での王子様としての存在感が圧倒的にたりない。ルックスや体格ももちろん、袖からスッとでてきたときに瞬時に舞台を支配し、そのオーラを劇場全体にいきわたらせる“何か”が彼には無い。
彼の本質は王子様にはなく、むしろキャラクテールと言った方がいいダンサーだ。実際「白鳥の湖」の王子をゲストとダブルキャストで踊ったとき、非番の日に演じた道化はすばらしかった。

それでは、なぜ彼が新国のノーブルでいられるのか。もちろん、日本人のノーブルを育てなければいけない、という配慮もある。それからもう一つは日本バレエ村の政治事情だ。
彼の所属母体は日本で事実上トップの座にある牧阿佐美バレエ団。牧その人が同時に新国の芸術監督であることは要素として大きい。
政治的バックアップで王子を演じた舞台に、「日本バレエファン」がマナーの良い観客としてどんな舞台でも絶賛大絶賛の拍手をする。
その悪循環が、現実を伴わない「和製ノーブル」を維持している。

しかし、クマテツ以降一般の観客も入るようになった日本のバレエ。ここにきてやっと市場原理も動いてきた。
あるベテランのダンサーは「直也では客は入らない」と言い切った。もちろんここでいう客というのは一般客のこと。実際、小嶋直也は最近の公演ではキャスティングでは後から来た山本隆之に追い落とされている傾向もある。
また、長く彼のパートナーとして踊ることが多かった酒井はなは、ある時期から組むことをしなくなった。これも関係者の話では、本人が彼と組むのを拒否したため、だという。
彼女は現実を伴った日本のトッププリマの1人。バレリーナとしての力量や存在感はもちろん、化粧品メーカーのCMに出演したり、篠山紀信撮影の写真集を出したりと現実世界でも「スター」としての存在感があり、日本バレエ界では少ないクマテツと同じ世界の住人とも言える。
そんな彼女には小嶋のオーラの無さがわかったんだろう。

でも、結局の所、日本には男性の踊り手が少ないからノーブルだキャラクテールだと言ってられない、という根本的な問題が根っこにある。
上手な男性ダンサーなら、王子様を踊らなければいけないことになってしまう日本バレエ村の薄っぺらさが、諸悪の根源ということだ。

小嶋直也。とても良いダンサーだからこそ、とても残念に思う。

……やっぱり固い話になっちゃったんですが、次の機会にはこんどこそ不真面目な話を書きます。小嶋直也はマクドナルド好きだ、とかね。
明日はとりあえずバレエは無しです。